良 寛 の 恋 パート3
★良寛の出家
げんじょうはりょう
彼は18歳の時突然出家する、寺小屋だった光照寺に駆け込み、住職の玄乗破了のもとで剃髪した。
良寛の実家は橘屋といい出雲崎では名家であり名主役である。
そんな家のボンボンがどうして突然出家したのか、その動機は?。
これには多種多彩の理由が伝えられている。
その理由はさておき彼の性格は如何なものだったのか。?
良寛は子供のころは栄蔵といい、人を疑うことを知らず、純粋なやや浮世離れした性格だったらしい。
ところで良寛が18歳ころ結婚してたと言う説があるそうだ。
だが半年もしないうちに離婚して仏門に入ったと言う説である。
相手の女性の名前も出所も解ってないそうだ。
又こんな話も・・・良寛には結婚を約束した女性がいたと。
相手は遊女で、その女性の部屋で一晩をすごし、早朝のうちに帰宅して自室にこもる。
あげく誰にも相談せず髪を切ったという。
「家督は弟に譲る」といって二世を契った遊女のもとえと走った。
驚いた遊女は良寛に取りすがって泣いたが、どうにもならなかった。
女は泣きながら・・・・ついに彼女も剃髪して尼になったとさ。
だんだん面白くなってきました・・次回をお楽しみに・・・。
こんな花も、、
良寛の恋 パート2
貞心尼の生い立ち
彼女は下級武士の子として長岡の荒屋敷町で生まれた。
子供の頃は勉強好きないい子であったと言う。
17歳で町医者と結婚、この結婚に疑問があるそうな。
『いくら下級武士といえど武家だ、藩医ならばいざ知らず町医者とは・・・』
どうやら若い二人の情熱に父親が押し切られたらしい。
でも彼女は気位ばかりが高く、夫の仕事を手伝おうとしなかった。
また患者にもそっけない態度で、お愛想一つ云わなかったという。
4~5年もたつとお互い相手が嫌になり浮気を、それで彼女は実家に帰された。
『今の言葉で言えば、貞心尼は親も手に負えないアバズレだったんですよ』 情報提供者北野保彦
著者にはない思いで仰天したとある。
学問好きで清純で、夫と死別後仏門に入ったとばかり思っていたからだ。
若い頃から乱行つつ`きで、嫁いでも身持ちがおさまらないとは、あまりにもイメージがかけ離れていると思ったらしい。
まだまだ主役はこの花だ。でも花言葉が『移り気』とは・・・大人の頭より大きいね。
タグ :良寛の恋
良 寛 炎の女貞心尼 の 恋 工藤 美代子著
今日は朝から梅雨らしくジメジメムシムシ先日県図書館から借りてきた本を読むことに。
良寛といえば、悟りを開いた温厚な和尚さんでしょう。
この本は著者が良寛と貞心尼との恋物語を書く為色々な人に取材することから始まっている。
☆プラトニック・ラブを貫いた?
一般的には純愛として見られているが、
《一度は結婚した経験もあり、処女でない貞心尼が女ざかりの三十代初めに、ただの純愛で》・・著者は疑問。
【わたくしは良寛さんにかぎて何かふしだらなことはなかったと信じておりますのよ】・・情報提供者 瑠衣
二人が出会ったのは良寛70台、貞心尼30台である。
その時貞心尼は次のような歌を詠んでいる。
『君にかくあひ見ることのうれしさも まださめやらぬ夢かとぞ思ふ』
良寛の返歌は
『夢の世にかつまどろみて夢をまた 語るも夢もそれがまにまに』
手放しで良寛に合えた感激を詠っている、貞心尼。
良寛はすでに著名な僧であり芸術家だったから、歌がはるかに陰影を含んだ複雑な味わいがあるのは当然である。・・と著者。
幾ら70歳を超えた良寛でも、漸く30になったばかりの美しい貞心との愛は、師弟愛よりも深く肉親愛よりも強く恋人愛より清い、とは行かないのでは・・・凡人の考えか?
とにかく瑠衣は貞心尼をふしだらな女と嫌っている。
確かにうりざね顔のすっごく美しい女であったようだ。
筆者は良寛と貞心尼のあいだにセックスがあったほうが人間味があり好きだといっているが、事実はわからない。
今日は朝から梅雨らしくジメジメムシムシ先日県図書館から借りてきた本を読むことに。
良寛といえば、悟りを開いた温厚な和尚さんでしょう。
この本は著者が良寛と貞心尼との恋物語を書く為色々な人に取材することから始まっている。
☆プラトニック・ラブを貫いた?
一般的には純愛として見られているが、
《一度は結婚した経験もあり、処女でない貞心尼が女ざかりの三十代初めに、ただの純愛で》・・著者は疑問。
【わたくしは良寛さんにかぎて何かふしだらなことはなかったと信じておりますのよ】・・情報提供者 瑠衣
二人が出会ったのは良寛70台、貞心尼30台である。
その時貞心尼は次のような歌を詠んでいる。
『君にかくあひ見ることのうれしさも まださめやらぬ夢かとぞ思ふ』
良寛の返歌は
『夢の世にかつまどろみて夢をまた 語るも夢もそれがまにまに』
手放しで良寛に合えた感激を詠っている、貞心尼。
良寛はすでに著名な僧であり芸術家だったから、歌がはるかに陰影を含んだ複雑な味わいがあるのは当然である。・・と著者。
幾ら70歳を超えた良寛でも、漸く30になったばかりの美しい貞心との愛は、師弟愛よりも深く肉親愛よりも強く恋人愛より清い、とは行かないのでは・・・凡人の考えか?
とにかく瑠衣は貞心尼をふしだらな女と嫌っている。
確かにうりざね顔のすっごく美しい女であったようだ。
筆者は良寛と貞心尼のあいだにセックスがあったほうが人間味があり好きだといっているが、事実はわからない。
情熱の花
タグ :良寛の恋
庶民の人々は?
タイトルからして一般庶民の生活ぶりも、想像たくましく描かれているものと期待したがない。
万葉集に登場する歌人即ち上級官僚たちの生活ぶりの一端が和歌と共に記されている。
私が好きな歌にこんなのがある。
むらさきの しめの のもり
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
その他額田王が近江天皇を思って作った
「君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く」
等美しくも大胆な三角関係を思わせる歌です。
万葉集には、多くの優れた歌人たちの歌が、納められていることは皆さんも周知の通りです。
それ以上の内容がないのでこれにてジエンドとしよう。
タグ :万葉時代
雨模様は読書で・・・。
先日病院帰りに寄った図書館で『万葉時代の日本人』 中西 進著を見つけ借りてきた。
★戸籍の話
初めて戸籍が作られたのは、天智9年(670年)2月だそうな、日本書紀に《戸籍を造る》とあるだけだって。
でも以外に早いですね、今は軒を単位に家を数えますよね、この頃は「へ」=かまど、を中心にしたあつまり、と言う意味で戸を単位に数えられたそうです。
一つの釜の飯を食うものは家族の意識ですかね、血のつながりは関係ないみたいです。
この頃の戸籍の一例を見ますと、すでに家父長制がとられていて年齢、性別、戸主からみた続柄もかかれてます。
面白いのは、妾なんかも家族として戸籍に記されていますね。
★結婚の形態
通常は通い婚で、財力をたくわえて妻を迎えるんだそうな、でもかなりの年数が必要だったようだ。
のちの物語などでも高貴な人が女性のもとえ通ってます、まだまだ女性中心だったようです。
ただ青春時代は、風流でエロスに満ちた恋心をかきたてたようだ。
★つけぶみ文化
この時代は自分の思いを文に、美しい歌で・・・人妻であろうが・・・。
文才のない人はドナイしてたのかね、心配やわ。
特に相聞歌は艶やかで生々しい。
また「和泉式部日記」や「源氏物語」など男女の営みが中心で美しい歌が交わされています。
色恋に明け暮れたいい時代だなと思いきや政治は大変だったようだ。
又山上憶良のように家族愛に満ちたうたを数多く遺した歌人もいますね。
憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ そのかの母も 吾をまつらむそ
一休み ーつつ`くー
雨に輝く花ー紫陽花ー
三 英 傑 矢場町交差点
優秀なカラクリを作る技術者が、この地方に多く、今でも数多くのカラクリが見られます。
でも今は、故障で動かなくなっているものが、いくつかあり残念ですね。
この動画は、YouTubeに投稿したものをブログにコピーしたものです、前の~No2よりも幾らか見れますかね。
音も乗せれますから音楽ものがいいかも、、、。
優秀なカラクリを作る技術者が、この地方に多く、今でも数多くのカラクリが見られます。
でも今は、故障で動かなくなっているものが、いくつかあり残念ですね。
この動画は、YouTubeに投稿したものをブログにコピーしたものです、前の~No2よりも幾らか見れますかね。
音も乗せれますから音楽ものがいいかも、、、。
祇 園 祭
画質が悪く見るに耐えませんが、雰囲気だけでも味わえればと思いますが、、、、、。
河内地方の「山車を豪快にぶつけ合う」お祭りとは対象的で、優雅に物静かな平安時代の貴族のお祭りですね。
画質が悪く見るに耐えませんが、雰囲気だけでも味わえればと思いますが、、、、、。
河内地方の「山車を豪快にぶつけ合う」お祭りとは対象的で、優雅に物静かな平安時代の貴族のお祭りですね。
今日は七夕
子供たちが楽しみにしてい
た七夕、1年に1度の会瀬もこの曇り空ではね。
天の川も彦星も見れなくて残念、でも願い事を一杯書いて、、欲張りですね。
中国から伝わった七夕伝説によれば、織姫と彦星が今宵愛を語るんですが、古代人は天に川があると信じていたそうですよ。
子供たちが楽しみにしてい
た七夕、1年に1度の会瀬もこの曇り空ではね。
天の川も彦星も見れなくて残念、でも願い事を一杯書いて、、欲張りですね。
中国から伝わった七夕伝説によれば、織姫と彦星が今宵愛を語るんですが、古代人は天に川があると信じていたそうですよ。
端午の節句飾り
昨日のように思い出されますよね、でももう父さんもいない、現実は厳しく寂しいですね。
♪柱の傷はおととしの五月五日の背比べ ♪
♪ちまき食べ食べ父さんが計ってくれた背の丈♪
♪ちまき食べ食べ父さんが計ってくれた背の丈♪
昨日のように思い出されますよね、でももう父さんもいない、現実は厳しく寂しいですね。
タグ :端午の節句
男 の 品 位
二人が愛し合った後、男の優しい心ずかいが男の値打ちを決めます。
「今どうされていますか、私は貴方が恋しくて、ならないのです」と次のような歌が書いてあります。
「恋と言えば世のつねのとや思ふらん今朝の心はたぐひだになし」返事は
世のつねのこととも更に思ほえずはじめてものを思ふ朝はと聞こえても、
「あやしかりける身のありさまかな、故宮の、さばかりのたまはせしものを」と悲しくて思ひ乱るるほどに、例の童着たり。
宮の歌は「後朝(きぬぎぬ)の歌」と言われるもので即座に贈ることが重要、やるせない恋の苦しさを詠んでいます。
一方の和泉の歌は、初めての恋の刹那さに苦しんで、また兄宮との熱愛を偲び、後悔の渦に激しく揺れつつ‘けています。
そんな時いつもの童が来ました、宮様からお手紙があるのかしら、、、次回へ。
二人が愛し合った後、男の優しい心ずかいが男の値打ちを決めます。
「今どうされていますか、私は貴方が恋しくて、ならないのです」と次のような歌が書いてあります。
「恋と言えば世のつねのとや思ふらん今朝の心はたぐひだになし」返事は
世のつねのこととも更に思ほえずはじめてものを思ふ朝はと聞こえても、
「あやしかりける身のありさまかな、故宮の、さばかりのたまはせしものを」と悲しくて思ひ乱るるほどに、例の童着たり。
宮の歌は「後朝(きぬぎぬ)の歌」と言われるもので即座に贈ることが重要、やるせない恋の苦しさを詠んでいます。
一方の和泉の歌は、初めての恋の刹那さに苦しんで、また兄宮との熱愛を偲び、後悔の渦に激しく揺れつつ‘けています。
そんな時いつもの童が来ました、宮様からお手紙があるのかしら、、、次回へ。
名大医学の源流の碑
堀川東畔を南に散歩していて見つけた、丁度トーエイネックの前辺りの土手でだ。
こんなところに医学校と病院があったんですね。
堀川東畔の街路に面して表門があったそうで、今のトーエイネックの駐車場辺りですかね。
堀川東畔を南に散歩していて見つけた、丁度トーエイネックの前辺りの土手でだ。
こんなところに医学校と病院があったんですね。
堀川東畔の街路に面して表門があったそうで、今のトーエイネックの駐車場辺りですかね。
稲園山 七 寺 中区大須二丁目
国宝、本堂及び重文の本尊ニ天の像は、昭和二十年の戦災でうしなわれ、現在は二尊の像と重文の一切経があるのみで、昔の面影はない。
天平七年(735年)七月に行基によって開創と伝えられている。
文治元年(1185年)四月住僧栄俊を招き、木像、三尊及び二天の像を修めた。
天正十九年(1591)三月清洲城畔の地に移り、慶長十六年(1611年)秋に現在地に移建する。
国宝、本堂及び重文の本尊ニ天の像は、昭和二十年の戦災でうしなわれ、現在は二尊の像と重文の一切経があるのみで、昔の面影はない。
天平七年(735年)七月に行基によって開創と伝えられている。
文治元年(1185年)四月住僧栄俊を招き、木像、三尊及び二天の像を修めた。
天正十九年(1591)三月清洲城畔の地に移り、慶長十六年(1611年)秋に現在地に移建する。
タグ :七寺
正岡子規 野 菊 (野路菊、野紺菊等の総称) キク科
野菊と呼ばれる植物の種類は多く、花もそれに応じてさまざまな色のものがある。
野路菊は本州西部、四国、九州の海岸付近に生え、花は白色で中心部は黄色である。
野紺菊は本州から九州にかけての山地に生え、花は青紫色で花の中心は黄色である。
この可憐な花を詠んだ句が多くあります。
人力を よけたるくろの 野菊哉 正岡子規
秋天の 下に野菊の 花弁欠く 高浜虚子
野菊と呼ばれる植物の種類は多く、花もそれに応じてさまざまな色のものがある。
野路菊は本州西部、四国、九州の海岸付近に生え、花は白色で中心部は黄色である。
野紺菊は本州から九州にかけての山地に生え、花は青紫色で花の中心は黄色である。
この可憐な花を詠んだ句が多くあります。
人力を よけたるくろの 野菊哉 正岡子規
秋天の 下に野菊の 花弁欠く 高浜虚子
青大悲寺 熱田区旗屋町
宝暦六年(1756)この地に生まれたきの女は、享和二年(1802)に如来宗を開いた。
尾張藩士や富商等にも尊信する人も多く、その説法の速記録は「御経様」と呼ばれ、名古屋弁そのままの語り方が特異な経典である。
きの女は文政九年(1826)七十一歳をもって遷化したが、一時は第十二代将軍を始め、大奥や大名など、江戸・川越地方にも信者が増加した。
明治末期以降も全国に伝達行脚すると同時に、社会事業にも尽力している。
また鉄地蔵堂には、文政十二年(1829)に所有した、等身大の鋳鉄地蔵菩薩立像一体があり応永三十三年(1425)と推定される陽鋳銘がある、この銘文から室町時代の作であることが分かった。
地図はこちら
宝暦六年(1756)この地に生まれたきの女は、享和二年(1802)に如来宗を開いた。
尾張藩士や富商等にも尊信する人も多く、その説法の速記録は「御経様」と呼ばれ、名古屋弁そのままの語り方が特異な経典である。
きの女は文政九年(1826)七十一歳をもって遷化したが、一時は第十二代将軍を始め、大奥や大名など、江戸・川越地方にも信者が増加した。
明治末期以降も全国に伝達行脚すると同時に、社会事業にも尽力している。
また鉄地蔵堂には、文政十二年(1829)に所有した、等身大の鋳鉄地蔵菩薩立像一体があり応永三十三年(1425)と推定される陽鋳銘がある、この銘文から室町時代の作であることが分かった。
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タグ :青大悲寺
大悲山 観聴寺 西山浄土宗
この寺に三基の月待供養碑がある、文禄五年(1596)、寛永七年(1630)、寛永十六年(1630)の銘がある。
これは月待信仰を碑石にあらわしたもので、民間信仰の遺産として貴重である。
また二体の鋳鉄製地蔵菩薩が安置されており、そのうちの一つに亨禄四年(1531)の銘がある。
ともに室町時代の鋳鉄技術を見るに、貴重な資料である。
この寺に三基の月待供養碑がある、文禄五年(1596)、寛永七年(1630)、寛永十六年(1630)の銘がある。
これは月待信仰を碑石にあらわしたもので、民間信仰の遺産として貴重である。
また二体の鋳鉄製地蔵菩薩が安置されており、そのうちの一つに亨禄四年(1531)の銘がある。
ともに室町時代の鋳鉄技術を見るに、貴重な資料である。
タグ :観聴寺
高座結御子神社 (たかくらむすびみこじんじゃ) 熱田区熱田東町高蔵
熱田神宮の摂社で延喜式内社である。
「神名帳」には、高座結御子神社とあり、続日本後紀、承和二年(835)十二月の条にもある。
祭神は高倉下命(たかくらしのみこと)で、俗に高蔵の杜といわれ、子育ての神と信仰をあつめた。
社伝によれば、織田信長が本殿を造営し、後に蜂須賀氏が修復を加えたとある。
この社叢は、往古の昔を偲ぶものとしても名高いそうです。
「子預け」について
子預け祈願とは可愛いい幼児の無事成育と、虫封じとをお祈りして15歳まで神様にお預けし、お守りをいただき満期(15歳)になったらお礼参りをするという信仰である。
お預かりしたお子様の名前を台帳に登録して、毎月1日無事成育の祈願祭を執り行っている。
熱田神宮の摂社で延喜式内社である。
「神名帳」には、高座結御子神社とあり、続日本後紀、承和二年(835)十二月の条にもある。
祭神は高倉下命(たかくらしのみこと)で、俗に高蔵の杜といわれ、子育ての神と信仰をあつめた。
社伝によれば、織田信長が本殿を造営し、後に蜂須賀氏が修復を加えたとある。
この社叢は、往古の昔を偲ぶものとしても名高いそうです。
「子預け」について
子預け祈願とは可愛いい幼児の無事成育と、虫封じとをお祈りして15歳まで神様にお預けし、お守りをいただき満期(15歳)になったらお礼参りをするという信仰である。
お預かりしたお子様の名前を台帳に登録して、毎月1日無事成育の祈願祭を執り行っている。
タグ :高座結御子神社
日 置 神 社 -中区下日置町ー
天太玉命(あめのふとだまのみこと)、天照大神、等を祀る神社で、平安時代初期の宮中の年中行事や、制度などを記した「延喜式」に載る「愛智郡日置神社」にあたるとされる格式の高い神社である。
永禄三年(1560)織田信長が桶狭間の戦いに出陣する時、戦勝を誓願したとの由緒あるやしろで
戦勝のお礼に松千本を境内に植えたと伝えられている。
以来千本松日置八幡の称があり、維新の際に社号を「日置神社」と改めた。
天太玉命は日置氏の祖神で、日置氏は暦を司る家である。
地図はこちら
天太玉命(あめのふとだまのみこと)、天照大神、等を祀る神社で、平安時代初期の宮中の年中行事や、制度などを記した「延喜式」に載る「愛智郡日置神社」にあたるとされる格式の高い神社である。
永禄三年(1560)織田信長が桶狭間の戦いに出陣する時、戦勝を誓願したとの由緒あるやしろで
戦勝のお礼に松千本を境内に植えたと伝えられている。
以来千本松日置八幡の称があり、維新の際に社号を「日置神社」と改めた。
天太玉命は日置氏の祖神で、日置氏は暦を司る家である。
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徳興山崇仁院 建 中 寺 浄土宗
慶安四年(1651)家光の時代に、尾張藩主光友が慈父義直公の菩提と、尾張藩人士の心のより所とする為に創建した。
境内約五万坪に、本堂諸堂数十棟を建立し、当時学徳一世に高い成誉廓呑上人を招請し、開山とした。
総門・山門は創建当時の建物で、本堂は天明七年(1787)の再建で市内最大のものである。
本尊は阿弥陀如来坐像で、鳥仏師の作とも恵心作とも言われている。
総門と山門
寺宝として開山木像や、蒙古襲来絵巻物などがある。
また徳川家寄付の宝物があったが、明治維新の折に散逸した。
慶安四年(1651)家光の時代に、尾張藩主光友が慈父義直公の菩提と、尾張藩人士の心のより所とする為に創建した。
境内約五万坪に、本堂諸堂数十棟を建立し、当時学徳一世に高い成誉廓呑上人を招請し、開山とした。
総門・山門は創建当時の建物で、本堂は天明七年(1787)の再建で市内最大のものである。
本尊は阿弥陀如来坐像で、鳥仏師の作とも恵心作とも言われている。
総門と山門
寺宝として開山木像や、蒙古襲来絵巻物などがある。
また徳川家寄付の宝物があったが、明治維新の折に散逸した。
この辺りは慶長15年の清洲から名古屋への住み替えのとき出来た町だって。
堀川と言う水路を利用して、米、塩、味噌、酒、等を運んだ商人の町として繁栄したそうな。
ところが元禄の大火で消失し復興の際に幅四間の道路を作ったことでこの名前がついたんだって。(四間道ーシケミチーと読むんだ)
防火の為だったんだね。
今まで散歩道として何度も歩いてたけどなんか歴史を感じるね。
堀川と言う水路を利用して、米、塩、味噌、酒、等を運んだ商人の町として繁栄したそうな。
ところが元禄の大火で消失し復興の際に幅四間の道路を作ったことでこの名前がついたんだって。(四間道ーシケミチーと読むんだ)
防火の為だったんだね。
今まで散歩道として何度も歩いてたけどなんか歴史を感じるね。