2019年06月13日

初めまして

今日初めて産業技術記念館へ、平成5年にできたらしいが。
名古屋駅からすぐだと聞いたから歩いてみたがなんと栄生だ。
 途中綺麗な花を見つけたので。




 記念館は繊維機械館と自動車館に分かれている。

豊田 佐吉が此処に自動織機の工場を・・今は記念館に。








当初はトヨダと呼んでいたらしく下の写真のローマ字はTOYODAとなってます。

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 自動車部門を独立させたときトヨタとし織機部門も同じ名称にしたんだって。



 憧れの2000GTだ。




 この車は幻・・発売されなかったパブリカスポーツだ。




 この車は電気自動車だが発売されているのかね?。
1時間ほど楽しく過ごさせていただきました。
  

Posted by 太閤錦 at 21:47Comments(0)歴史と文化

2017年07月19日

火曜日は休みだって


 京都に来て3日目(18日)何しに来たんだ京都くんだりまで・・と思うほど。
まず御のぼりさんが好む金閣鹿苑寺へ行くことに。

 やっぱ混むは外国人ばかりだ。




 何時も正面のものばかりだから今回は違った角度からの写真で。
此処からバスで竜安寺へ、石庭が有名だ。





 正面からをご所望ならば埴輪風をどうぞ。








 ハスですかね綺麗ですね。此処から嵐電でバスを乗り継いで天神さんへ。












 次は二条城に寄りましたが城内は休みで入れない。
東大手門は修復されて綺麗だ・・・残念だね。









 最終日の今日はちょっと頑張りすぎですかね、10000歩以上。  

Posted by 太閤錦 at 14:32Comments(0)歴史と文化

2017年06月10日

えっカードがない!


 名古屋ボストン美術館で今日から始まる「パリジェンヌ展」。
でもない年間パスポートのカードが・・・。





 すごすごと帰るしかない、残念だが次回のお楽しみに。

 帰り道ガクアジサイが慰めてくれた。









 そう言えば稲沢の紫陽花寺もそろそろ見頃かもね。
  

Posted by 太閤錦 at 16:28Comments(0)歴史と文化

2017年06月06日

半世紀ぶりだぜ

 尚武祭に・・熱田さんには数年前初恵比寿で参拝・・。

 早かったのでまずは本宮に参拝すべく東門から、献灯まきわらはまだ飾り付け前だ。




 熱田神宮には東門のほかに正門である南門と西門がある、南門からは真っ直ぐ北に進めば本宮に。




 この祭りでの芸能や武道等の行事は見たことがないので見てみた。



 日本舞踊、民謡、筝曲、そしてフラダンスと素晴らしかった。

 そうそう此処には信長が寄進した「信長塀」がある。

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 日本三大土塀の一つで桶狭間の合戦で勝ったお礼に奉納したと言われている。

 日も落ちてきたのでまきわらの灯も入っただろうと東門へ。



 昔はこのまきわらは、内田橋と宮の渡しの間の海上に、まきわら船として豪華な姿を見せていた。
何時からこんな姿になったのかねぇ、半世紀もたてば変わりますよね。
 高校生の時ですか・・・身動きのできない内田橋上で浴衣姿の彼女と・・・思い出します。

 此処から花火を見るため、熱田の森へ移動したいのだが、凄い人であきらめ家路に。  

Posted by 太閤錦 at 08:42Comments(0)歴史と文化

2014年07月24日

150年ぶりだよ


  大船鉾が再現された  in祇園祭後祭り

 後祭りが行われるのは49年ぶりだそうな、そして大船鉾が再現されたのが150年ぶり。
幕末の「蛤御門の変」の大火で木組や車輪を焼失し、それ以来山鉾巡行には不参加今年復活した。





 24日の山鉾巡行の姿です。

 後祭りにはそのほか9個計10体の山鉾が巡行した。
その一部をどうぞ。













  後祭りだから前祭りより空いているのではと思ったが凄い混みようでいい写真が??だった。  

Posted by 太閤錦 at 21:23Comments(0)歴史と文化

2013年05月31日

行ってきました!

      本丸御殿一般公開

 混んでますね・・正門前まで並んでますよ・・並ぶしかしょうがないですね。
今回の公開は玄関と表書院です。

 玄関は一之間(18畳)と二之間(28畳)の二間あり、本丸御殿を訪れた人が取り次ぎを待つところです。
周囲の壁や襖には、来訪者を威圧する勇猛な虎や豹が描かれています。

 表書院は正規の謁見に使われた広大な建物です。
ここには5つの部屋があり、中でも三之間は39畳ある大広間です。
障壁画は松、桜、雉子などの華やか花鳥図です。

 本丸御殿内はフラッシュ禁止ですので満足な絵はありません、がないよりましですかね。































   (2013-5-31 撮影)  

Posted by 太閤錦 at 17:27Comments(0)歴史と文化

2013年03月07日

待ちきれない


 名古屋城本丸再建

 5月に見学が出来るようになるが待ちきれないので近況を。












  

Posted by 太閤錦 at 11:34Comments(0)歴史と文化

2011年10月28日

本丸御殿復元工事


   素屋根内の工事見学

 久しぶりに工事の見学を・・だいぶ形がはっきりしてきましたね。
まづは御城の雄姿を・・。





 工事内は暗くてフラッシュはたけないし。





































   オイラが生きてるうちにすべて完成するンかね・・・見てみたいわ・・・全貌をね。  

Posted by 太閤錦 at 21:09Comments(0)歴史と文化
     淡い恋心

 炊屋姫は敏達天皇の最初の皇后、広姫が亡くなって翌年皇后になった。
敏達との間に七子をもうけ、寵愛された。
竹田皇子、尾張皇子、のほか五人の皇女を。

585年に蘇我馬子は大野丘に仏塔を建てた、この行為はまさに排仏派物部守屋に対する宣戦布告である。
飛鳥の人々は騒然となった。
この頃すでに敏達は病床に伏していた、寝たり起きたり、という。

 敏達の宮を守っていたのは、三輪山の豪族三輪君逆であった。
彼はまだ三十半ばだが大王家の忠臣で、敏達と炊屋姫の信頼が厚かった。
ことに炊屋姫は凛々しい武人の彼に好意を抱いていた。
これは三輪君逆も同じ気持ちだが相手は皇后であり、近寄りがたい存在である。
彼は自分に好意を寄せてくれている美しく神秘的な感じの炊屋姫に、密かに思慕の念を抱いてた。

 これは彼一人だけではない、炊屋姫には伯父にあたる馬子、それに異母兄弟の穴穂部皇子もそうであった。
ことに穴穂部皇子は、炊屋姫を口説いて、なんとかして次期大王の地位を得ようと、このところ宮廷に入りびたりだ。
時に炊屋姫は三十歳である。
                   つづく



  

Posted by 太閤錦 at 09:27Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2011年06月11日

梅雨時は読書

      長編歴史小説
       紅 蓮 の 女 王   黒岩 重吾 著

 揺れ動く六世紀末の日本、妖艶な美貌の炊屋姫(かしきやひめ)の炎のような愛の世界、蘇我氏との権勢をめぐる壮絶な人間模様を時代色豊かに・・・・歴史ロマン大作。

  黒岩 古代文学の粋! がキャッチコピーだ。

 幼名を額田部皇女といった炊屋姫は、色白の美貌で、・・・・で始まる。
そして「あの美しい飛鳥の都で、私は大王になるのです」炊屋姫は、一瞬、眼をとじた。

 と推古女帝になる事を暗示しながらのエンデングである。

 兎に角美貌の持ち主・・色白で・・女優の小雪や深田恭子みたいな・・私の好みの・・いい女だ。

 日本書記によると18歳で三十代敏達天皇の皇后になった。
当時の女人には珍しく引き締まった冴えきった顔をしていて、勝気な性格で才気走っている。

 美貌だけでなく頭も切れた才女だったんだね・・チョット煙たがられるタイプ?かな。

 この時期は蘇我馬子と物部守屋が政権を争ってた。
百済出身で崇仏派の馬子・・異国の神は?と排仏派の守屋の抗争の時代である。

 馬子が飛鳥に仏塔を建てれば、守屋がそれを焼き払うと。
この抗争に巻き込まれながら炊屋姫はある恋に落ちていく。

                                    つづく 



    

Posted by 太閤錦 at 11:10Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2010年11月22日

紫式部の香り漂う


    石 山 寺  (東寺 真言宗)

 歴史の香りが漂う花の寺、この時期は紅葉が美しく夜はライトアップされ美しさも一段と。
でもそれより紫式部が「源氏物語を書いた寺」の方が有名かもね。



 



 



 





 

  2010-11-21撮影

            
  

Posted by 太閤錦 at 12:35Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化
  名古屋城本丸御殿復元

 2009年から始まったこの工事も玄関二之間の『竹林豹虎図』が完成し公開された。









 そのほか本丸御殿の屋根部分の骨組みなど・・。




 
 玄関一之間




( この公開は10月26日まで)
  

Posted by 太閤錦 at 20:00Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2010年10月07日

紙細工《名古屋祭》

名古屋祭りの行列を紙人形で作ったものが名古屋城にあります。
来週《16日17日》には祭りが始まり豪華な武者行列は圧巻です。























  

Posted by 太閤錦 at 22:45Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2010年06月11日

こんな所に!。

   漱石の三四郎ゆかりの宿跡

 先日スポ・センへ行く道筋を変えてこの碑を見つけた。
此処は名駅南一丁目だ、私が思っていたのとは方角が違う。
名古屋駅を出て左の方角ではないかと・・でも此処は笹島の交差点の南東側だ。

 そうか明治のこの時代は名古屋駅が笹島付近にあったのか。
漱石の三四郎には詳しく記されてない。《ぶらぶら歩いて》 《暗いほうへ》 《三四郎にも女にも相応なきたない看板》とか。
結局宿名も無くただ《ご案内ー梅の四番ー》とだけ・・。

 でもこの碑の裏には 角屋 犬飼〇〇〇建之 と記されている。
三四郎が泊った宿名だろうか?。

 この地方にはまだまだゆかりの地がありそうだ、そんな所を探索するのも面白そうだ。



   

 (北、広小路方向を望む)               (西、笹島方向を望む)

 

 
  

Posted by 太閤錦 at 14:16Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2009年11月03日

本丸復元工事状況


 暫く見ないうちに状況は一変してた。
鉄骨が組み立てられていた。
まだ屋根は張られてないが・・この建物の中で復元工事がやられるのだろうね。

 よく寺院などの修復工事がこの方法でやってるの見たことあるわ。

 

 

  資金は順調に集まってるのかね、僅かながら協力はしているが・・。  

Posted by 太閤錦 at 14:10Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2009年10月03日

二千年の歴史

  熱 田 神 宮
私たち身近にありすぎて余り知らない〈熱田さん〉。
先ずは本宮のお姿から
熱田の杜奥深く鎮座まします御本宮は、明治26年までは尾張造りの社殿でしたが、三種の神器奉斉の社であることから伊勢の神宮とほぼ同様の社殿配置・規模の神明造りに御改造されました。その拝殿より御玉垣を拝すると、一番奥に見える社殿が本殿でここに『熱田大神』が鎮座まします。



そして別宮・八剣宮
元明天皇和銅元年〈708〉9月9日に勅命により神剣をつくり、境内に社を建てて、これを納め祀ったことが御鎮座の創始です。建築様式をはじめ年間の祭典・神事に至るまで全て本宮に準じて執り行はれます。古来より武家の信仰があつく、天正3年織田信長は長篠に出兵の際社殿の脩造を命じ、又慶長4年家康は拝殿・回廊・築地の脩造を、貞享3年将軍綱吉は本殿の造替を行った等の記録が残っている。



どんな神が祭られているのか
クサナギノミツルギ・・というぐらいは知ってますが、詳しくはねぇ・・下記をクリックしてね。
http://www.atsutajingu.or.jp/gosaisin/yuisho.htm


                                            只今熱田さんは脩造中です、皆さんの御心をお待ちしてます。  

Posted by 太閤錦 at 11:14Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2009年07月10日

最期は私が看取る

   良 寛 の 恋  (最終回)         工藤 美代子著 

 ★危篤の知らせ

 良寛が頑なに庵の戸を閉め切って人と会わなかったのは、病気が進み起きているのも辛かったと思はれる。
一方自分の病気が見舞いに来た人に伝染するのを恐れていたともいわれている。

 いったい良寛はどんな病気だったのか、下痢などを繰り返していたらしいので、大腸がんだったであろう。と。
いよいよ、良寛の容態が悪化したので、おそらく木村家の人が「良寛危篤」の知らせを弟の由之に送ったのだろと。

 注目すべきは、このとき同時に貞心尼にも使いがいっていることだ、妻同様の扱いだ。
貞心尼はあくる日に木村家にかけつけた。
しかし弟由之は3日後でなければ行けないと手紙を送っている。

 危篤の兄にたいして悠長な返事に思える。
一方貞心尼は一途だった。
しんしんと雪の降る中を、ひたすら歩きそして走って良寛の元に駆けつけた。

 良寛はひどく喜び歌を詠んでいる。
「いついつと まちにしひとはきたりけり いまはあひ見てなにかおもはん」
 あなたを待っていたのだと、とにかく貞心尼に会いたい良寛の本音がはっきり出ている歌である。

 どうやら貞心尼は腹を決めて木村家に乗り込んだ。
「この人の最期は私が看る」と。

 たった独りで生きて来た良寛が、そのその末期のときを迎えて、若く美しい女性に妻同様の愛情を
注がれていた事実にこころがが温まる思いがすると、著者は記している。


                「天保二卯年正月六日」74歳でご臨終。

 良寛の辞世の句の一つ。

 『形見とて何かのこさむはるは花山時鳥あきはもみじ葉』
     ・・・・・良寛さま、安らかにお眠りを・・・・・


       今日の花




  

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2009年07月09日

虱と戯れる?

   良 寛 の 恋 パート⑥        工藤 美代子著


 ★五合庵とくらし

 ある日五合庵から二里ほど離れた、茶屋の亭主太郎兵衛爺さんが、字を書いてほしいと良寛を訪ねた。

「良寛さんゐさっしゃるかの?」と垣根の外から声を掛けると、良寛は庵室の縁側の日当たりのいいところに出て、帯を解いて着物を広げていた。
何をしているのかと思えば、着物の裏の縫目を這っている虱をつまんでは、それを縁側に広げた白紙の上に一匹づつ移して、虱が右往左往するのを楽しそうに眺めている。

虱を並べて歩かせて競走させて、どちらが早いかを見ては悦に入っているのだ。
なんということをしているのか、いくら退屈だといっても、それはちょっと酔狂が過ぎると茶屋の亭主は声を掛けた。

 そこで初めて良寛は客人に気がついた。
「おやおや、太郎兵衛どん、お前さまはまあいつの間にござらした?暖かなえい陽気になったで今日は国上寺さまへお参りにでもござらしたか、まあ、兎に角お前さまもここへ来て掛けさっしゃれ」と愛想よく答えた。

 良寛は自分のやってることを、少しも恥ずかしいと思っている様子はなかった。
相変らず帯を解いて、痩せて萎びた腹と胸をむき出したままで、縁側に胡坐をかいている。太郎兵衛は呆気にとられて、その姿を見ていた。

 すると良寛は「わしも、そろそろ店をしまふことにしませうわい」 といって、居住まいを正した。
まだ驚いている太郎兵衛を前に、良寛は紙の上に這わせていた虱を一匹ずつつまみ上げて、それを自分の煮物に戻すのである。

 「良寛さま」 と思わず叫んだ。
「お前さまは又何をさっしゃるだ、そりゃ虱ぢゃないかの」

 しかし、良寛は平然としている。
「これもわしの友達さ、折角からしてわしをたよって居てくれるものを、お前さまどうしてこれが殺せるものかの」そういいながら、とうとう良寛は一匹残らず虱を自分の着物に移して、それから着物を着て帯を締めた。

 もはや太郎兵衛は何もいえずにみつめていた。と。

<何と心の優しい?良寛だろう・・・あきれるばかりだ。
 今の人たちは虱なんて見たこともないでしょうね、終戦まじかの疎開先で虱に悩まされた方もあると思いますが、もう遠い昔のことですね。

 良寛はこんな歌も。

「のみしらみ音に鳴く秋の虫ならばわがふところは武蔵野の原」

 今日の花








  

Posted by 太閤錦 at 16:01Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2009年07月08日

新しい世界へ。

    良 寛 の 恋  パート⑤

 ★流浪への旅たち

 良寛が出家をして光照寺で修行をしたのは4年間だった。
彼は此処で生涯を終わらせる気はなかったのか。
何故なら良寛は国仙の人徳を慕い、弟子として一緒に旅立つのである。
それはまさに彼にとっては、広大な世界への飛翔でもあったろう、と。

生まれて初めて故郷を旅立った彼は、備中の玉島にある円通寺へむかった。
このとき、良寛は紗弥(しゃみ)から紗門〈剃髪し悟りを求める修行者のことで出家者の総称〉になった。
ようやく国仙によって一人前の僧侶となった。
そして円通寺に到着してみると、思いがけないほど厳しい現実が待ち受けていた。
其の状況は晩年の彼の漢詩で解る。

「わしが円通寺におったのは
 なん年間じゃったかな
 ちょっと賑やかな町じゃったが
 知ってる顔は一つもなし
 着物も持たず食物もろくになし
 洗濯をすませては托鉢に出たものさ
 昔の先達が言い残したとおり
 貧乏がいやでは坊主になれぬでのう
<東郷 豊治の読み下し>

 新入りの良寛の役目は、鐘つきと便所掃除だった。
生涯で初めて親元を離れて苦労したのである。

 この頃から良寛の放浪癖が始まった、しかしどの辺りを放浪したかは、はっきりとした証拠がない。
彼が円通寺にきて12年の歳月が流れた、68歳で国仙が亡くなると旅にでた、ここにはもう良寛を引き止めるものは何もなかった。

今日の花




  

Posted by 太閤錦 at 12:40Comments(0)TrackBack(0)歴史と文化

2009年07月07日

70歳でセックス?

   良 寛 の 恋  パート4

 ★老いらくの恋 
 
 瑠衣と著者とはかなり解釈が違う点がある。
一致するのは積極的だったのは貞心尼であること・・。

 「これぞこの ほとけの道に 遊びつつ 撞くやつきせぬ みのりなるらむ」この歌を添えて、お逢いしたいとアプローチしたのは貞心尼である。

 この歌には良寛の琴線をくすぐるキーワードがあるという。
「ほとけの道」、「遊びつつ」は良寛が進む道であり、また好きな言葉でもあると。
また「撞くやつきせぬ」とは手毬のこと、良寛が最も愛した玩具で、いつも手放さなかった。・・・我々もよく知るところだ。
そうした情報を貞心尼はよく知った上で、和歌を贈ったのである。頭のいい女であると・・・著者。

「・・・・あたくしは、貞心が利口であった・・教養もありました。・・ただね、良寛さまですよ。・・・貞心のことだって全部承知の上でしたよ。」と瑠衣。

「そうでしょうか」と著者。

「わかりました。工藤さんの・・耳を貸しましょう。あの女が晩年の良寛さまに最も近しい存在だったこよは私も認めます。・・・良寛さまはもう70歳ですよ。色恋沙汰はないでしょう。」と瑠衣。

「いいえ、あります」  私の声は思わず大きくなっていた。
「70歳だって、恋はします。セックスもします。良寛だって聖人ではありません。むしろ、ずっと若い頃から女性に接する機会がなくて、セックスをしてこなかったから、歳をとってからのほうが、エネルギーがあったかもしれませんよ」と著者。

「まあ、なんてことをおっしゃるの。あたくしは絶対認めません」 と瑠衣が叫んだ。

 この論議は如何なものか、下世話な、淫らな議論と見るべきか?己の事と考えると・・・。

  正直良寛和尚が羨ましい・・・老いらくの恋・・・してみたい、これふしだらな思いだろうか???。


                           
今日の花
  




   


 


  

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